自由旅クリエイター/ライター にじねこMiiのブログ

なりゆきまかせの自由旅が好きなライター。元バックパッカーで今は2児の母。人生を今よりちょっとだけ楽しくしてくれるモノが好き。Web媒体で旅や地域の魅力を発信したり、取材記事を書いてます。お仕事も随時募集中♪

モンゴルぼっとんトイレ旅にお金を払う人

久しぶりに友人と会った。

いわゆるママ友でご近所さん。子どもが大きくなった後も、たまに母同士でご飯を食べに行くことがある。

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その彼女に「3月初めにモンゴルに行ってきたんだ」という話をした。そしてゲルに泊まっていた間はシャワーも浴びれなかったことや「トイレはぼっとんで外にあるから、夜中にライトつけて行かなきゃいけなかったんだよねー」なんて話を笑いながらしたら、彼女は「へぇ〜、そうなんだ!」と驚いた後、ちょっと申し訳なさそうにこう言った。

「うーん、でも私はそういう旅行にお金払おうとは思わないかも...」

うん、そうだよね。わかってる。っていうか、大抵の人はそうだと思う。

そんな不便極まりなくて、お風呂にも入れない旅にわざわざお金を払うなんて、単なるモノ好き以外の何ものでもないって私も自覚してます。

まあでもそう思いながら現地に行ったら、予想に反して同じような変わり者が何人もいたんだけどね。おもしろかったのは(私を含めて)ゲルに泊まりにきていた旅人全員が、「こんな極寒の時期にわざわざモンゴルに来る変人は、自分くらいだろう」と思っていたことだ。そんな人たちだから、まあみんな個性は強めだった(笑)

 

価値観なんて人それぞれだから、自分が「お金を払う価値がある」と感じるなら、そうすればいい。ただそれだけの話だ。 だってそんなのは自分が決めることだからね。

確かにトイレはどっぽんじゃないほうがいいし、シャワーも毎日浴びれた方がいいけど、私にとってはそれ以上に「行ってよかった!」って思うことがたくさんあったから十分満足なのだ。

大雪原でゲルに泊まれたし、

馬で一日中遠出したし、

息をのむような朝焼けや星空が見れた。

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もっともこれは私の価値観なので、べつに誰かに押しつけようとは全然思わない。まあもし興味を持ってくれる人がいれば、全力ですすめますけど!そして友人が「どっぽんトイレ旅にお金は払いたくない」からといって、べつに友だちをやめるつもりもない。

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いろんな人の話を聞いて、いろんな価値観や考え方に出会うことが、私は楽しい。「なるほど、そういう考え方もあるんだ!」と自分が思いもしなかった切り口を知ることがおもしろいのだ。ときには思いがけない視点を得ることで、自分の抱えるモヤモヤがスーッと晴れることさえある。だからどんな考えや価値観も私は否定しないし、一旦は「受け止める」。その後に自分がその価値観を「受け入れる」かどうかは別としても。

 

私は何がダメって「自分の考えが絶対」と思ってる人が苦手だ。

だから自分の価値観を当然のように押しつけようとする人からは、全力で逃げるようにしてます!笑

 

 

 

【横須賀】浦賀に降り立った日〜ペリーゆかりの地で祭りと出会う

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その日の午後、私が降り立ったのは京急線浦賀駅だった。「浦賀」という名前に聞き覚えのある人も多いだろう。そう、歴史で習った「黒船来航の地」ーー。

浦賀がいったい何処にあるのか?正直いうと私はそれさえ知らずにいたのだが、浦賀は神奈川県横須賀市に位置することを、そのつい数日前に知ったのだった。

 

この町には「東叶神社」と「西叶神社」というふたつの神社があるという。浦賀は海を挟んで東浦賀と西浦賀に分かれており、ちょうど向き合うようにしてふたつの神社が建てられているのだ。そして東西を結ぶ人々の足として「浦賀の渡し」という渡し船が両岸を行き来している。私が浦賀を訪れたのは、この渡船に乗り、両方の神社をお詣りするためであった。


訪れたのは夏の暑さもまだまだ厳しい9月の上旬だったのだが、たまたま年に一度の神社の例大祭の日であったらしい。東叶神社へ向かう途中、出店こそなかったが、はっぴに身を包んだ人たちが、山車の上で太鼓を叩いたり、楽しげな様子で通りに集まったりしている。こぢんまりとしたローカルなお祭りといった雰囲気だ。

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東叶神社に着くと、祭りの日だというのに境内は思いの外しんとしていて、社殿に続く階段を上って振り返ってみると、神社の目の前にはキラキラとした海が広がっていた。海を隔てた向こう側には西叶神社があるはずだ。

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東叶神社は「東浦賀の叶神社」、西叶神社は「西岸叶神社」と本来別々の神社なのだが、対として認識されることも多い。縁結びのご利益でも知られ、西叶神社の勾玉を東叶神社のお守り袋に入れて身につけると、良縁に恵まれるのだとか。

お詣りをすませ、海辺に足を運んでみると、少年が一人、太陽の下で釣り糸を垂らしていた。ここからほんの少し離れたところでは、祭りの雰囲気がそこかしこに感じられるというのに、少年の影絵のような姿はまるで映画のワンシーンのようで、静寂に満ちていた。目の前には青く眩しく、どこまでも穏やかな海が広がる。

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浦賀の渡し」の渡船場は、東叶神社のほど近くにあった。乗り場は何とも緩いシステムで、船がいない場合はボタンを押すようになっている。程なくして、船が向こう岸からやってくるのが見えた。ほんの7、8分船に乗れば、反対側へ渡ることができる。

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ちなみにこの浦賀の東西を結ぶ渡し船の航路は「2073号線」といって、れっきとした市道に認定されている。海上にも市道があるなんて初めて知った。

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昔ながらの交通手段というイメージの「渡し船」だが、じつは首都圏にもちょこちょこ残っている。たとえば千葉県松戸市と東京都の柴又を結ぶ「矢切の渡し」は、今も細々と江戸川を小さな舟で行き来する。昔、歌謡曲にも歌われヒットしたので、記憶にある人も多いだろう。

また神奈川県の三浦半島の先端と城ヶ島の間には、城ケ島大橋という立派な橋がかかっているのだが、かたやそのすぐそばでは「城ヶ島渡船」と呼ばれる渡し船が海を往来している。

どれも片道5〜10分程度の乗船時間だが、それだけでもう非日常というか、ささやかな旅気分を味わえるのが渡し船のおもしろいところだ。

 

さて西岸に到着し、西叶神社へ向かっていくと、東側とは打って変わって、通り沿いにはたくさんの店が出ていた。きっと年に一度のお楽しみなのだろう。わたあめやおもちゃを手にした子どもたちや、友だち同士でそぞろ歩く女子中学生。いかにも長年親しまれてきた町のお祭りといった感じで、誰もがリラックスした表情だ。おそらく多くは地元の人なのだと思う。あるいは大人になって町を離れたけれど、年に一度のこのお祭りには帰ってくる、という人も中にはいるのではないだろうか。人が自分のふるさとの存在を意識するのは、案外こういうタイミングなのかもしれない。

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西叶神社でも手を合わせ、無事に東西神社のお詣りをすませると、私は人波に逆行しながらのんびりと駅まで戻った。

 

鳥居の間から見える海の煌めき。

釣り糸を垂らす少年。

両岸を結ぶ小さな船。

そして思いがけず出会った祭りのさんざめき。

歴史の教科書でしか知らなかった「浦賀」という町が、思いがけず私にとって近しい場所となった9月のある日の午後。

 

 

 

自分に自信を持つ方法

「自分に自信を持つにはどうしたらいいだろう?」

そんな声を時々聞く。

はっきりいって世の中の大体の人は、自分に自信なんてそんなにないと思う。「自信がある人」というのはつまり、「『私ならこれを何とかできる!』と自分を信じられる人」のことをいうんじゃないだろうか?

 

そしてもし私が、「自分に自信を持つには?」という質問に答えるとしたら、ベタではあるけど「小さな成功体験を積み重ねること」と答えるだろう。

「成功体験」の内容なんて、大げさなものじゃなくて全然いい。日常にある「自分の力でなんとか乗り切れた」とか「諦めずに最後までやり通した」ことは、どんな些細なことだって「成功体験」といえると思う。

 

私は20代半ばまで、自分にとても自信がなかった。それを変えるきっかけになったのは、海外に1人で旅に出たことだった。特にヨーロッパでのバックパッカー旅の体験が、私には大きかったと思う。

スマホなんてないアナログな時代だったから、紙の地図を広げ、時刻表を調べて、次にどの国に行くか予定を立てたり、電話や駅のインフォメーションで宿を予約したりと、全て自分でやらなければならない。常に選択の連続だよね。

それに自分の身は自分で守るのが鉄則だし、アクシデントに対応するのも自分だ。「失敗した!」なんてことも数知れず。だから旅の間じゅう、おもしろそうなことを探しつつも、常に心のどこかで警戒心は持っていた。「ここまで踏み込んでも大丈夫なのか?」という境界線を、いつも探っていたような気がする。そしてお金が尽きるまでの半年間、そんな一つひとつの旅の中での小さなミッションを、自分の力でクリアすることができたからこそ、無事に帰国することができたのだ。

これが私にとっての「成功体験」だったのは間違いない。大事なのは「なんとかなった」かではなく、「自分の力でなんとかできた」かということ。

新しいことにチャレンジするときには、誰だって多かれ少なかれ不安はあると思う。だけど「小さな成功」を積み重ねることができていれば、「私ならなんとかできる!なんとかする!」と自分を信じて、一歩を踏み出すことができるはずだ。さらにそれが新たな成功体験にもなっていくだろう。

そして小さな成功を積み重ねるために必要なこと。それはどんなことでも、自分自身で経験してみる。これしかないと思うんだよね。

迷ったときには

今日は「人生で迷ったとき」についてお話しします。

皆さんは普段どのくらい「迷う」ことがあるでしょうか?

何時に買い物に行こう?

お昼は何食べよう?

この仕事は引き受けたほうがいい?

ほんの些細なことからちょっとした決断まで、人は誰だって、常に迷いながら前に進んでいると思います。もちろん私もそうです。人間だからこそのいろんな欲やしがらみに振り回されることだってあるでしょう。

でも私の場合、「迷い続ける」ことはあまりないかもしれません。グダグダと悩み続けることは、時間とエネルギーのムダだと思っているからです。

今決められないと思ったときは、一旦保留にし、それを決める期限を決めるようにしています。たとえば「明日の朝、もう一回考えて、そのときの自分が出した答えに決める」とか。

迷ったときの私の中のキーワードは

「一度立ち止まる」

「自分自身の心に聞く」

のふたつかな。

 

たとえば、新しい仕事の話をいただいたとき。

「この案件の内容は、私が求める条件とあまりにもかけ離れているからお断りしたい。でもこの間も断ったし、そんなことが続いたら仕事の話は来なくなるかも⁉︎それは困るな。ちょっと不本意だけど、引き受けたほうがいいかな...?」という葛藤があったとします。

こんなときは考えれば考えるほど、頭の中でいろんな利害のシーソーゲームが繰り広げられて、収拾がつかなくなるんですよね。

普段はできるだけ早く返答をするのですが、迷うときは一旦保留にします。先方には「検討いたしまして、明日の午前中までにお返事いたします」といった連絡を入れ、一晩その迷いを寝かせる。少し時間を置くことで頭がリセットされるし、状況を俯瞰的に見られる気がするのです。

最終的には「私は今、何を大事にしたいのか?この状況の中で、自分自身はどうありたいのか?」と問いかける。自分の気持ちには、できるだけ正直でありたいと思っています。そしてそのときに出た答えで、一旦「決めて」しまう。とりあえず決めることによって、物事は自然と動き出します。

 

私は普段はわりとすぐに決めるほうですし、そもそも本当にやりたいと思ったことには、迷いなく行動に移す自分がいます。そんなときは「ああ、これは私が本当にやりたかったんだな」と、もう1人の自分が思うのです。

 

人は毎日、いくつもの選択を繰り返しながら生きています。些細なことからちょっとした決断まで、これまでも常に何かを「決めながら」生きてきたはずです。そしてそれを繰り返した先にいるのが、今の自分なんですよね。

 

人生にひとつの正解はないと思っています。だからどんな道を選ぶのもありだと思うんです。状況は常に動いていきますし、そのなかで自分にとっての正解も変わっていくでしょう。だからこそ、迷ったときには自分の心の声に従い、一旦は「決める」。そしてもし前に進んでいくなかで、「何か違うな」と感じたら、軌道修正をしながら、少しずつ自分の思い描く人生にしていけばいいと思うんです。

自分の理想の人生を、迷いなく一本道でつくっていける人なんていません。どんな人だって、紆余曲折、ときには袋小路に入ったり、寄り道をしたり。ムダと思えることをいっぱい経験しながら、ちょっとずつ「自分はこうありたい」と思う人生の形に近づいていくものなんじゃないでしょうか。

 

いつの間にか深い話になりましたね。

今日はこの辺で終わりにしましょう。

私の「プチストレス」対処法

ストレスって、日々の生活のちょっとしたストレスの積み重ねで大きくなったりしませんか?私は毎日できるだけ自分が快適に過ごせるように、そしてやりたいことに集中できるように、小さなストレスはなるべく減らしたいと思っています。

家の中で日々感じる些細なストレスって、案外軽く見てしまいがち。でもこれが毎日積み重なると、そのちょっとしたイライラが、どんどん大きなストレスになっていくような気がします。

そこで今日は私がふだんやっている、「家の中のプチストレス」への対処法をご紹介したいと思います。べつに大層な内容でもないのですが、ひとつでもふたつでも、もしご参考になるところがあれば嬉しいです。

 

【洗面所・お風呂・トイレ編】

<めんどくさい詰め替えもの対処法>

「洗剤やシャンプーがカラになったから詰め替えないと!」っていう場面、けっこうありますよね。でもこんな時に限って、朝の忙しい時間だったりします。そんな時は詰め替えるのを忘れないように、空容器を洗面所の見えるところに寝かせておく(わかりやすいように)か、詰め替える方を目立つところに置くようにしています。そうすると、後で時間がある時にすぐ入れられるのでストレスになりません。

 

<洗面台びしょびしょ問題対処法>

洗面台にはハンドタオルを置いています。洗面台がびしょびしょになった時にすぐ拭けるので便利です。

 

<かさばるバスタオル対処法>

お風呂のバスタオル&バスマットは、我が家では一切使いません。厚手で乾きにくいし、かさばるのがイヤなので、全部普通のタオルで済ませています。干す時もたたむ時も、全部同じ大きさなのでラクですよ♪

 

<トイレットペーパー対処法>

「トイレ内のトイレットペーパーがもうすぐなくなりそう!でも今補充するのはめんどくさい・・」

そんな時はとりあえず、トイレの入り口に新しいペーパーを置くだけ置いておきます。そして次回トイレに入る時、それを補充すれば気がラクです。

シャンプーや洗剤の詰め替えもそうですが、その時に全部やろうと思うとストレスになるんですよね。だからとりあえずは「ワンアクション」のみ、起こすようにしてます。

 

【洗濯編】

<洗濯干す時対処法>

私は洗濯物を干す前に、一度干すものを仕分けします。タオルやインナーなどの大きめのものと、靴下や下着類などの小さなもの、というようにざっくりと仲間同士で分けてしまう。その方が干しやすいですし、絡まったタオルにイライラしながら干すということもないのでストレスが少ない気がします。

 

<靴下ペア問題対処法>

靴下は干す最初の時点で、ペアで隣同士に干します。そうすることで、たたむ時に外しながら組んでしまえるのでラクなんです。

 

<洗濯物たたむ時対処法>

洗濯物をたたむときは、上にあるものから順にたたむようにしています。この方が洗濯物同士がムダに絡みませんし、シワにもなりにくいと思っています。

 

【キッチン編】

<お弁当箱洗い問題対処法>

高校生の息子のお弁当箱は2つ用意しています。息子が帰ってくるのは、毎日夜の9時10時くらい。そこから夕飯を食べて、時にはそのままこたつで寝てしまうので、お弁当箱を洗いに出さないまま朝になることもしばしば。最初は私も口うるさく、キッチンに出すように言っていたんですが、すごくストレスになったんですよね。もう言うのも嫌になってしまって・・。

だから今は弁当箱をふたつ用意して、交互に使っています。そうすることで、朝慌てて弁当箱を洗うこともなくなり、気持ちにほんの少しゆとりができました。「弁当箱もう一個あるから、今日中に洗えなくてもいっか!」と思えるとラクです。

 

以上、私がふだんやっているプチストレス対処法を思いつくままに書いてみました。

「なんだ。こんなことか」と思うものもあるかもしれませんが、ストレスになるものは少しでも減らして、できるだけ楽しく快適に毎日を過ごしたいもの。

皆さんも何かプチストレス対処法があったら、ぜひおしえてくださいね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【エッセイ】しあわせのカタチ

 午前7時。「もうすぐ朝日がのぼるよ」と彼女が階段を下りてきた。高台にあるその家に、彼女は一年前から住んでいる。長かった街での暮らしにさよならをして、自ら今の生活を選んだのだ。そしてきのう初めて、わたしは彼女のこの家を訪れた。

 リビングは2階にあり、窓の外に目をやれば向こうに湖が見える。湖面から立ちのぼるもやが、上から見下ろすとまるで雲海のようだ。太陽は少しじらすように木々の間から姿を現した。わたしは窓を開けて大きく深呼吸をした。遮るものは何もない。あるのは朝靄と木々と目覚めたばかりの太陽、そして静寂だ。

 山小屋を思わせるリビングは窓が横に広く、明らかにこの風景を意識してつくられたのだろうと思わせた。彼女が淹れてくれた熱いほうじ茶ラテを飲みながら、ふと「息子はちゃんと起きて部活に行っただろうか?」などと考える。朝食を準備しながら弁当を作り、子どもたちをたたき起こすといういつもの忙しない朝とは別の世界に、私はいた。

 それにしても都市の生活からそう遠くないところに、こんなにも自然豊かな暮らしがあったのは驚きだ。「でも夏は庭の草むしりが大変だし、何より虫がね...」と彼女は少し苦笑いした。

 

 彼女とはずいぶん長い付き合いで、お互いに気心も知れている。これまでもう何度一緒に出かけたか分からないくらいだ。そして会えばいつでも、ざっくばらんに自分の近況や心の内を話してきた。

 きのうの夜はふたりで美味しい料理とお酒を堪能した。帰りの心配をしなくていいという安心感もあってか、酔いも回り、仕事やこれからの暮らし、自分の人生についてとりとめもなく語り、笑い合った。そんな中、今回初めて、彼女がずっと心の奥底に抱えていた淋しさや悲しみについて知ったのである。

 これまでの彼女のイメージは、「自己主張は強くないけれど芯の強さは持ち合わせた女性。日々の生活の中で自らの人生を楽しめる女性」であったから、正直わたしは驚いた。でも結局のところ、これまでわたしが知っていたのは、彼女のほんの一部分にすぎなかったのだ。繊細な彼女の心を少しだけ垣間見たような気がした。

 人間誰だって、本当の心のうちを人に明かす機会などそうそうない。自分の奥の奥にしまい込んだ思いというのは、きっと誰にだってあるだろう。でももしかすると、それは家族や友人にも一生明かさないまま終わるかもしれないのだ。

 

 彼女は今、庭に迷い込んできた1匹の猫と暮らしている。痩せ細っていたその猫に毎日餌をあげながらも、自分で飼うつもりはなかった。でも猫が危うく死にかけ、動物病院へと駆け込んだ時に、「病気であと数年しか生きられない猫です」と医者から告げられ、彼女は最後まで一緒に生きることを決めたのだという。 「その頃は私もここで1人暮らしを始めたばかりで、これからどうなるんだろうって不安な毎日だった。でも一生懸命生きてるこのコから、勇気をもらったんだよね。私も頑張んなきゃって」

 わたしには、夫がいて子どもたちがいて、街での便利な暮らしがある。

 彼女には、猫がいて、街では決して手に入れられない風景と静かな暮らしがある。

 どちらがよりしあわせかなんて、誰にもわからない。しあわせのカタチは人それぞれだ。それに人間はないものねだりの生き物だから、誰かの人生が眩しく感じてしまうこともある。

 でもひとつ言えるのは、持たないものがあるからこそ、ふとしたことをよりしあわせに感じられる瞬間があるのではないかということ。

 彼女は不便さや淋しさと引き換えに、輝く湖面の美しさや季節の移ろいを感じる喜びを手に入れているのであり、猫の温もりをより愛おしく感じられるのではないか?

 彼女は今、湖を見下ろすこの場所で、自分のしあわせのカタチを一つずつつくりあげている。

 

 

 

 

自分のことが大嫌いだった

今日、上沼恵美子さんのこんなネットニュースを読んで、思い出したことがあります。

↓↓↓

上沼恵美子「顔がブサイク」と悩む女性に神回答 「名言すぎて泣ける」「めちゃ深くて刺さった」 - ライブドアニュース

それは「昔、私は自分のことが大嫌いだった」ということ。

今はむしろ自分のことが好きです。私は今50歳ですが、若い頃を懐かしく思い出すことはあっても、「あの頃に戻りたい」と思ったことは一度もありません。私にとっては家族がいて、パートとライターを掛け持ちしながら忙しくしている今の方がずっと楽しいし、充実していると思っています(一人旅をしていた時に戻りたいと思うことはたまにありますけど)。

 

若い頃の私はいつも自分に自信がありませんでした。人と接するときは常に壁をつくっていたし、女子グループには全く馴染めなかった。友だちは何人かいましたが、人づきあいが苦手で、何となく浮いているという意識はいつもありました。

中学の頃は男子に「クロマティ」と呼ばれ、それがさらに自分嫌いに拍車をかけました。クロマティは当時日本にいた黒人のプロ野球選手で、私はもともと地黒だったのでよくそんなふうにからかわれたのです。

決定的だったのは、中学当時の担任との三者面談の時に担任が私の母に言った「娘さんは暗いですね」という一言。とてもショックでした。担任は私をそんなふうにみていたんだ。そして、私って暗いんだ...(何しろそんな自覚はなかったので)。

成績は中ぐらいだし、部活の剣道もそんなに強いわけじゃない。何か得意なことや好きなものがあるわけではなく、いつも自分が空っぽの人間のような気がしていました。

自分を少しだけ好きになれるようになったのは高校の時でした。私が慕っていた書道のおじいちゃん先生が退職する際に一筆お願いしたら、こんな一言を書いてくれたのです。「その素晴らしい笑顔を大切に」。それはとても思いがけない言葉で、ずっと自分に否定的だった私に大きな力をくれました。

高校を卒業して大学へと進んでからは人付き合いも前ほど苦ではなくなり、楽しい大学生活を送りましたが、自分へのコンプレックスは常にありました。

 

それが大きく変わるきっかけになったのは26歳の時。海外を1人で旅していた時に知り合った欧米からのバックパッカーから「いい色に焼けているね」と言われ、思わず「私はもともと色が黒くて、それが自分は大嫌いなの。」と答えたのです。すると相手はこう言いました。「すごく素敵な色だよ。僕なんてこんなに真っ白だから、いつもいい色に焼きたいと思ってる」と。

その言葉を聞いて、心でモヤモヤしていた気持ちがスッと軽くなったような気がしたのです。私はそれまで、ずっと色白の女の子が羨ましいと思っていました。それに比べて私はなんて色黒でブスで可愛くないんだろうと。

でもそんなの比べたってた仕方ないんですよね。自分にないものを求めても仕方ない。そもそも人間ってないものねだりの生き物だし。そんなモノの見方自体、一つの固定観念でしかないことに、はたと気付いたわけです。「私は私なんだ」と。

それからは人と比べず、自分軸で生きてきたような気がします。そしてずいぶん楽になった。もちろん今は家族がいるので、いつも自分優先というわけにはいかないですけどね。

 

今も時々誰かを羨ましくなりそうなことはあるけど、そんな時は「人は人、自分は自分」と言い聞かせて、「私はどうしたいのか?どうありたいのか?」と問いかけるようにしています。最後に「いい人生だった」と言って終わるのが、私の究極の目標です。

 

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