自由旅クリエイター/ライター にじねこMiiのブログ

なりゆきまかせの自由旅が好きなライター。元バックパッカーで今は2児の母。人生を今よりちょっとだけ楽しくしてくれるモノが好き。Web媒体で旅や地域の魅力を発信したり、取材記事を書いてます。お仕事も随時募集中♪

シチリアの彼女ーイタリアー

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その日シチリア島に降り立ったのは午後9時半。長い旅だった。

 

前夜にドイツ・ミュンヘンを発ってからほぼ24時間。ようやくシチリアカターニャに着いた時には心底ほっとした。迎えに来てくれた友人ジゼラの車に乗って、彼女の地元である内陸部の小さな街までさらに1時間半。疲れ切った体に連続のカーブがこたえる。ようやくたどり着いたジゼラの家では、お母さんがごはんを作って待っていてくれた。

 

ジゼラとは9か月前、オーストラリアの現地ツアーで知り合い、意気投合したのだ。そして今、このシチリアの小さな丘の上の街で再会を果たしていることが不思議だった。これから私はジゼラの家に1週間滞在するのだ。

 

辺鄙な片田舎の街ゆえ、道で会うのはみんなジゼラの知り合いで、そのたびに紹介されるのだがとても覚えられない。一方、相手はみんなすぐに私を覚えてくれた。何しろ私はこの街に来た初めての「アジア人」らしいから。

 

1週間の滞在中、私はジゼラやその友人たちと一緒にいろんなことをやった。自転車で隣町までサイクリングに行ったり、ドライブに出かけたり、街の小さなカフェで丸いパンにのせたレモンのグラニータ(シャーベット)を食べたりもした。

 

そんななかでも印象的だったのは、街のフェスティバルだった。それはどうやらサン・セバスティアーノという守護聖人のお祭りで、数日間かけて盛大に行われた。夜11時くらいから教会に行ったり、コンサートやダンスタイムがあったり、馬のパレードが街を練り歩いたりと日本のお祭りとはまったくべつのものだ。

 

サン・セバスチアーノをのせたお神輿にみんなぞろぞろとついていき、各家でワインとビスコッティをもらう。こんなに地方色、宗教色の濃いお祭りに参加したのは、後にも先にもこの時だけだ。どこもすごい人混みで、街のみんなはこのお祭りをとても誇りに思っているようだった。

 

ジゼラはふだんシチリアの別の街に暮らしながら学生をしていた。この時はちょうど私の訪問と地元のお祭りが重なったこともあり、私を実家に連れていってくれたのだと思う。私が滞在している間も、彼女は毎日必ず自分の勉強の時間をとっていたし、いつも努力家だった。だって彼女には「ジャーナリストになりたい」っていう夢があったから。

 

シチリア滞在も終わりにさしかかったある日、私はジゼラとお母さん、そしておばさんの4人で海水浴に行った。山から海へと下っていく途中、目に飛び込んできたのはどこまでも真っ青な海。ジゼラと出会ったオーストラリアの海はどこまでも明るく、活気に満ちた印象だったが、シチリアの海はもっと落ち着いた静けさをたたえていた。

 

そのビーチは日本人がくるような場所ではなく、みんな物珍しげに私を見ていたのを覚えている。見知らぬおじさんが海に入る私にたずねてきた。

 

「何かカンツォーネを知ってるかい?」

 

「もちろん!」といって私は「オーソレミオ」と「サンタルチア」をイタリアの海で思いきり歌った。周りは大いにうけ、私も久々にお腹の底から日本語で歌っていい気持ちだった。

 

どこまでも広がる濃いブルーの海を目の前に、大きなサンドイッチとトロピカルフルーツのグラニータを食べる。照りつける太陽の下で感じる潮風が心地よい。

 

ジゼラとふたりだけになったとき、ふと彼女が母についてぼそりと話し始めた。

 

「母は私がいくら何かでベストを尽くしても、決してそれには満足しない人なの。」

 

いつもいつも、母はさらにその上を求める。そして私はもうそれにうんざりなのだ、と彼女は少し疲れた表情で言った。突然の告白に私は返す言葉がなかった。この数日間ではまったく気づかなかったことだ。

 

しっかり者で努力家のジゼラは、母の期待に応えなければという気持ちに常に追われてきたのだろう。そしてその真面目な性格ゆえ、自分を追い込んでしまっていたのかもしれない。

 

そういえば少し前、人口2,000人の小さなこの街を「素敵なところだね!」と私が言った時、ふと彼女は呟いたのだ。「もちろんこの街のことは大好きだけど、私はこの街から出たいの。小さな街だからね。みんながお互いのことを知ってる。」

 

強くて、頭がよくて、凛としていて、同性から見ても魅力的なジゼラ。でもそれは本当は、彼女が懸命に作り上げてきた虚像だったのかもしれない。

 

幸いにして、彼女の父はいつも味方でいてくれるという。「成績がどうであろうと、お前がHappyならお父さんはHappyだよ。」と。その言葉がこれまで彼女を支えてきたのだろう。そして多分これからも。

 

その日の帰り道、カーブ越しに見た水平線は来たときよりももっと深く、濃いブルーの色をたたえていた。