午前7時。「もうすぐ朝日がのぼるよ」と彼女が階段を下りてきた。高台にあるその家に、彼女は一年前から住んでいる。長かった街での暮らしにさよならをして、自ら今の生活を選んだのだ。そしてきのう初めて、わたしは彼女のこの家を訪れた。
リビングは2階にあり、窓の外に目をやれば向こうに湖が見える。湖面から立ちのぼるもやが、上から見下ろすとまるで雲海のようだ。太陽は少しじらすように木々の間から姿を現した。わたしは窓を開けて大きく深呼吸をした。遮るものは何もない。あるのは朝靄と木々と目覚めたばかりの太陽、そして静寂だ。
山小屋を思わせるリビングは窓が横に広く、明らかにこの風景を意識してつくられたのだろうと思わせた。彼女が淹れてくれた熱いほうじ茶ラテを飲みながら、ふと「息子はちゃんと起きて部活に行っただろうか?」などと考える。朝食を準備しながら弁当を作り、子どもたちをたたき起こすといういつもの忙しない朝とは別の世界に、私はいた。
それにしても都市の生活からそう遠くないところに、こんなにも自然豊かな暮らしがあったのは驚きだ。「でも夏は庭の草むしりが大変だし、何より虫がね...」と彼女は少し苦笑いした。
彼女とはずいぶん長い付き合いで、お互いに気心も知れている。これまでもう何度一緒に出かけたか分からないくらいだ。そして会えばいつでも、ざっくばらんに自分の近況や心の内を話してきた。
きのうの夜はふたりで美味しい料理とお酒を堪能した。帰りの心配をしなくていいという安心感もあってか、酔いも回り、仕事やこれからの暮らし、自分の人生についてとりとめもなく語り、笑い合った。そんな中、今回初めて、彼女がずっと心の奥底に抱えていた淋しさや悲しみについて知ったのである。
これまでの彼女のイメージは、「自己主張は強くないけれど芯の強さは持ち合わせた女性。日々の生活の中で自らの人生を楽しめる女性」であったから、正直わたしは驚いた。でも結局のところ、これまでわたしが知っていたのは、彼女のほんの一部分にすぎなかったのだ。繊細な彼女の心を少しだけ垣間見たような気がした。
人間誰だって、本当の心のうちを人に明かす機会などそうそうない。自分の奥の奥にしまい込んだ思いというのは、きっと誰にだってあるだろう。でももしかすると、それは家族や友人にも一生明かさないまま終わるかもしれないのだ。
彼女は今、庭に迷い込んできた1匹の猫と暮らしている。痩せ細っていたその猫に毎日餌をあげながらも、自分で飼うつもりはなかった。でも猫が危うく死にかけ、動物病院へと駆け込んだ時に、「病気であと数年しか生きられない猫です」と医者から告げられ、彼女は最後まで一緒に生きることを決めたのだという。 「その頃は私もここで1人暮らしを始めたばかりで、これからどうなるんだろうって不安な毎日だった。でも一生懸命生きてるこのコから、勇気をもらったんだよね。私も頑張んなきゃって」
わたしには、夫がいて子どもたちがいて、街での便利な暮らしがある。
彼女には、猫がいて、街では決して手に入れられない風景と静かな暮らしがある。
どちらがよりしあわせかなんて、誰にもわからない。しあわせのカタチは人それぞれだ。それに人間はないものねだりの生き物だから、誰かの人生が眩しく感じてしまうこともある。
でもひとつ言えるのは、持たないものがあるからこそ、ふとしたことをよりしあわせに感じられる瞬間があるのではないかということ。
彼女は不便さや淋しさと引き換えに、輝く湖面の美しさや季節の移ろいを感じる喜びを手に入れているのであり、猫の温もりをより愛おしく感じられるのではないか?
彼女は今、湖を見下ろすこの場所で、自分のしあわせのカタチを一つずつつくりあげている。